脱常識の社会学

社会学おもしろすぎ。この本の根底にはデュルケムって人の思想があるようだ。
  1. まえがき
    • 「どんな学問も次の二つのことを目指さなければならない。すなわち、明快であること、そして当たり前でないこと、である。本当の知識は伝達できるものでなければならない。つまり、人に分かるように言い表すことができなければならない。しかも、何か言うに値すること、これまで知られていなかったことで、それを知れば知る前とは何かが違ってくるようなことがそこに含まれていなければならない。」
  2. 合理性の非合理的基礎
    • 「誰もが自分の職務を果たすことだけに一生懸命で、目的に対する最も有効な手段を計算しながら、大きな機械の歯車の歯のようにふるまう。歯の目的は、特定の歯車を回すことである。歯車の歯としてふるまう人は、そもそもなぜ歯車が回らなければならないのか、機械全体を解体して別のものにとりかえた方がよいのではないか、といった点については判断ができなくなってしまう。」
    • 「資本主義の本質は、マルクスが指摘したように、あらゆることを利潤計算に還元する傾向に他ならないからである。この過程において人間的価値は経済的価値に従属させられ、人間に対する配慮は資本主義のなかで失われてしまう。さらに、このシステムの経済的結果さえも、長期的にみれば不合理なものである。」
    • 契約には2つの契約が含まれている。一つは契約それ自体。もう一つは、互いに契約を守るという暗黙の契約である。欺くことと約束を守ることでは、前者の方が合理的である(欺く方が期待値が高い)。人が合理的なら欺くことになる。デュルケムがこれを持ち出したのは、社会組織は、契約になど基づいていないことを示したかったから。「デュルケムの結論は、契約というものは非合理的な何ものかに基づくということである。彼はそれを「前契約的連帯」と呼ぶ。これは、要するに、社会が信頼に基づくものだということである。」

      これは長期的な損得を計算に入れても成り立つと著者は云っているが、よくわからん。合理的な人間は、最低の人間と云うことだね。合理的になれ、なんて言えなくなっちゃったね。
    • 医療費を無料から$1にしたら、来院者は激減した(適切な水準になった)。$1は十分やすいので、合理的に考えれば、減らないはず。
    • 「重要なのは、私たちの手にする実際の利益の客観的な価値よりも、世界についての私たちの主観的な感情である」
      とっくに社会学者は知っていたと云うことだね。
    • 「プロテスタント型の宗教道徳が商取引きをする人びとを、正直にふるまい、買い手を欺くのをやめるよう動機づけたということである。要するに、宗教革命は、経済的不信の雰囲気に長い間慣れ親しんでいた社会のなかに信頼の小宇宙を作り出したのである。」
    • 集団が連帯をもつためには「その成員はお互いの関係のなかでは自分自身の利益を計算することをやめ、集団としての共通の利益のみを考えるようにならなければならない。そのためには、ただ乗りするかわりに集団に貢献したいという気持ちを起こさせるような非合理的感情を彼らがともかく共有することが必要である。イデオロギーやシンボル、そして感情が政治においてとくに重要なのはこのためである。」
    • 「このように、階級闘争の基礎を探求する場合にも、契約社会の根底を成す連帯の基礎を考える場合にも、私たちは、他人を信じうると考える人びとがなぜいるのかという問いに行きつく。デュルケムは、このような信頼関係は合理的計算に基づくことはありえず、より深い、無意識の源泉をもつほかはないことを示した。こうして、問題を提起したデュルケムは、次いでその解答を提示した。彼の社会儀礼論がそれである。」
  3. 神の社会学
    • 「人びとが神的なものに帰属させているすべての特性をそなえたひとつの現実が存在する。それは自然物でもなく、形而上的なものでもない。それは、社会そのものである。というのも社会はどんな個人よりもはるかに大きな力だからである。社会のおかげで私たちは生きてくることができた。そして社会は私たちを殺すこともできる。社会は私たちに対して恐るべき力をもっている。誰もが、数え切れないほど多くの点で社会に依存している。私たちは、自分で発明したわけではない道具や技術を使い、他の人たちから伝えられた言葉を話している。事実上、私たちの物質的および象徴的世界すべてが社会から私たちに与えられるものなのである。私たちはさまざまな制度のもとで生活を営んでいるが、これらの制度も、家庭生活の形式であれ、経済であれ、政治であれ、あるいはその他のどんな制度であれ、結局は他の人びとによる実践のつみ重ねから、つまりは社会から由来したものなのだ。これこそ宗教があらわす根本的な真理にほかならない。つまり神は社会の象徴なのである。」
    • 「私たちは社会の要素であり、社会は私たちがあってはじめて全体として存在しうる」
    • 「この種の自分自身についての感覚というものは、たいてい、他の人びとからどのように扱われてきたかということによって形成される。」「私たちは、他の人びとの目をとおして自分自身をみる傾向がある。」
    • 殺すこと、嘘をつくこと、盗むことなど「これらの規則はすべて、一定の社会的文脈を離れては意味をなさない。」
    • 「道徳が集団所属に由来するのであれば、社会のなかにはさまざまの種類の集団があるという事実、そしてそれらの集団がしばしば互いに闘争状態にあるという事実、また個人は集団に加入したり離脱したり、いろいろ移動があるという事実は、多数の異なった道徳が存在するということを意味する。」
    • 集団に所属する利点は、情動的なエネルギーが得られること。「一人ではできないこと、あるいはしようとも思わないことが、大勢でならできるのは、この情動的エネルギーの働きによる。」
    • 「集団の会合は、エネルギー変換のための一種の社会的機構である。集団状況にプラグをつなぐことで、個人は以前よりも強力で目的意識のはっきりした人間になることができる。」
    • 全員がともに歌ったり、詠唱したり、踊ったりといった「儀礼化された行為は規則的で律動的なものである。そして集団は、この種の共通の行為によってはじめて、みずからがひとつの集団であるという自覚をもつことができる。」
    • 「神話的なトーテムや全能の神だけが神聖なのではなく、トーテムをあらわす木彫りの標徴や、神を礼拝するための祭壇や十字架もまた神聖なものとされる。」
    • 「そうした儀礼やそれに関連する聖なる事物を冒涜するような行為は、どんな行為であれ、集団の安定性を脅かす。それゆえ、そのような行為に対しては怒りの反応が生じる。」
    • 「この理論の適用範囲は多方面にわたる。すでに私たちは、この理論が宗教固有の領域を超えていることをみてきた。宗教的な儀礼や観念だけでなく、政治的儀礼というものもあり、また政治的観念ーイデオロギーと呼んでよいものーもある。」理論とは、儀礼と象徴によって集団に所属していることを意識すること。
    • 宗教は社会の鏡である。では、宗教と社会と、どちらが先に変化するのか。「マックス・ウェーバーは、宗教の領域における変化によって近代の資本主義的産業社会の興隆がもたらされたと主張した。」一方、マルクス主義では逆に考えており、構造主義者はどちらが先かという問題には触れない。
    • 「大きな世界宗教においては、神または究極的実在は、この世のあらゆる特徴づけを超えたものとされ、したがって、否定形でしか、あるいは抽象的な最上級表現でしかーつまり、果てない、限りない、終わりのない、全知の、最高度に善なるものとしてしかー描きえないものとされる。神を単に一種の超人として限定的にみなすことは冒涜行為となる。」
    • 「宗教の基本的な象徴体系が社会をあらわすのであれば、人類の幸福や社会の維持または改善に焦点を合わせる主義主張のなかに、この根源的内容が常にみいだされうるからである。宗教は、一般化と抽象化の極点にいたったとき、政治的理念に転化する。こうして宗教上の信仰の衰退のなかから、保守主義、自由主義、社会主義といった、近代の政治上の主義主張があらわれてくる。と同時に、それらは新しい形で宗教的関心を持続させてもいるのである。」
    • 「宗教の遠隔化と抽象化を推進する同じ社会変動が、同時に人びとのいっそうの個別化をももたらすのである。」
    • 「行為の有罪性・無罪性の程度も主観的意図の問題との関連で決まるようになってきている。ある人物が意識的かつ意図的にこれこれの行為をしたのかどうか。現代の法廷では、このことが判決を左右する。」「今や人びとは、自分で考え決定することのできる主体的自我をもつ存在とみなされている」「個人として責任を負いうる自我に従って行動するよう要求されている」これは一種の宗教的信仰である。なぜなら、個人であるべく(選択の余地なく)期待されているからである。
    • 「ゴフマンが述べているように、社会的相互作用はひとつの循環過程であり、そこでは誰もが他者に理想的自我を与え、そのお返しに他の人びとから自分好みの自我を受けとる。」
    • 「私たち各人が自分の内部にさまざまの層をもちうるのは、ひとえに私たちが現代の複雑な社会的世界に住んでいるからである。この内面的な複雑さはすべて、私たちがさまざまの集団的状況の間を移動しうるがゆえに、またそれぞれの状況にふさわしい理想的自己の呈示を奨励されるがゆえに、生じるのである。」
  4. 権力の逆説
    • 仕事が複雑だと、出来高制による労働者統制はむずかしい。よって、金で労働者に云うことをきかせることはできない。
    • 強制労働は能率的ではない。ナチスやロシアの奴隷労働がこれを示している。「強制は、人に何かをするよう動機づけるよりは、人に何かをさせないようにする方に効果を発揮する。」「愚鈍さは、強制状況の結果である。反逆も逃亡もまったく不可能だとすれば、囚人たちはついには自分から何かをしようとする気持ちを失いはじめる。他人のために無意味な仕事をするよう強制された囚人たちは、できるかぎりうわべだけでいわれたことをする。できるだけ殻の中に閉じこもる。」
    • 高度に儀礼化されている組織(例えば教会、軍隊)を利用すれば、彼らが仕事を自分の一部と感じ、自分たちの信じる何ものか、あるいは自分たちの属する何らかの集団に貢献しているのだと感じるようになる。
    • 「人びとを仕事をしたいと仕向けるひとつの主要な方法は、彼らに一定の責任を与えることである。それは、何をさしおいても、社会的な責任でなければならない。つまり、他人を組織の名において取り扱わなければならないような状況に彼らを置く、ということである。」
    • ほとんど全てのことは質問の対象になりうる(コミュニケーションには前提となるものがいつでもある)。当然と考えていることを説明するよう迫られると、人は腹をたてる。「要するに、社会の仕組みというものは、人びとがたいていはそれを疑わないがゆえに機能する。
    • 「あなたが論敵の弁論を脱線させたいなら、相手が主論点に到達する前に彼らをさえぎって、彼らの使う言葉を定義するよう求めればよい。」「発言者の資格を問うたり」「代表者を出して十分に意見を述べてもらわなければならない人が他にいるのではないかとか」「彼らの発言の動機は誠実なものか」などなどの質問である。
    • 最高水準を達成しようとする代わりに、満足水準(=それ以下の結果は認めないという限界)を定め、それ以下にならない限り放っておくと、複雑な組織も動かせる。
    • 何度も起きる問題(ルーティーン)なら経営者は自分ひとりで決断できる。しかし問題が高度の不確実性の領域にあると、専門家が大きな力を持つ。その専門家が、問題を簡単に解決する(問題を)と、問題をルーティーンに変えてしまう。専門家の助言が確実性をもたないような領域でこそ、経営者は専門家を頼る(なんたる逆説)。
    • なぜ医者が頼られるか?それは、医者は確実には患者を治せないから。修理工は確実にものを直せるから、修理工の技術は高く評価されない。神秘性が価値を高めている。
  5. 犯罪の常態性
    • 犯罪防止のための社会計画(グループワーカー、ソーシャルワーカー)はたいした効果をあげていない。
    • 最初はそれほど他の人たちと違ったところはないと思っていた人が、違反者、犯罪者というレッテルを貼られ、犯罪者としての処遇を受けていくと、自分は他とは違うという感覚が強化され、犯罪者としてのアイデンティティを身につけていく。
    • いったん警察に、犯罪者として認知されると、真っ先に疑われるようになる。仮釈放中に軽微な罪を認めるのと引き替えに、多数の事件(=やっていない事件)についての自白に応じてしまう。
    • 「ラベリング理論は、犯罪は事実上、逮捕の過程によってつくられると主張する。」犯罪者に、黒人や貧しい人が大変多いのは、そういう人たちが単に逮捕されやすく、起訴されやすいから。男子学生友愛会の若者がレイプするのと、貧しい黒人がレイプするのでは、犯罪者のラベルが違うため、全く対応が異なるのである。
    • 法律は罪を作り出す装置だ。麻薬の非合法化は、麻薬価格を高騰させ、常習者が購入費を確保するため盗みに入るという犯罪を増加させた。
    • かつては暴力で言うことを聞かせて(賭場のみかじめ料を稼いで)いたギャングは、賭場がいうことを聞かなくなってくると、警察にたれ込むという方法をとるようになる。
    • 必ずしも貧しい者が富める者から盗んでいるわけではない。むしろ、犯人は近隣で犯罪を起こす。最も恵まれない者が、最も恵まれない者から盗む場合が多い。
    • 「社会組織が、人びとをより大きな集団の成員へと統合していくメカニズムをうまくつくりだせないと、道徳感情は出現しない。」相互不信は、各個人が利己心だけに基づいて行為する結果である。
    • 社会システムが犯罪を作り出す。社会主義では私企業を持つことは犯罪であるが、資本主義ではそうではない。禁酒法の社会は酒を飲むことは犯罪であるが、現代はそうではない。
    • 1944-45の間ドイツの支配下に置かれたデンマークは、警察を解体させられた。ある種の犯罪(財産犯罪)は増加した(強盗は10倍に)。しかし、殺人や性犯罪(激情犯罪)の数は変化しなかった。このように、法の執行装置とは無関係に起きる犯罪もある。
    • アメリカの州の比較で、死刑の存廃に無関係に殺人の発生率はほぼ同じである。人々は厳しい罰を受けるか否かで、殺人を犯すか否かを決めるわけではないといえる。
    • 被害者なき犯罪:その行為を犯罪と定義する社会運動によって作り出される。犯罪者のレッテルを貼られた者は、犯罪のネットワークに巻き込まれていく。
    • 財産犯罪:法の執行が停止されても、この種の犯罪は消滅しない。
    • 激情犯罪:最も個人的な性質を持つ。社会学的な検証では原因を突き止められない。
    • デュルケムは、社会は存続のために犯罪を必要とする、と結論づけた。犯罪者の処罰は、衆人に知らされる儀礼のひとつ。非道な犯罪者に感じる怒りとともに、道徳感情も喚起される。これらは、社会をまとめるために必要なもの。
    • (郊外に住む安楽椅子に座って新聞の犯罪記事を読むような)中年以上の裕福な人たちは、既に社会との連帯が強い。よって、犯罪者を処罰すべしという道徳的アピールに強く突き動かされやすく、また関心も持っている。この種の犯罪に憤慨するという行為が、自分たちがまともな社会の一員であるという感覚を彼らに与える。
    • 「あらゆる社会に常にみられることは、とにかく犯罪と処罰が必ず生じるように法がセットされているということだ。」部族社会にはタブーが、ニューイングランドの清教徒には魔女犯罪が、資本主義社会には財産犯罪が、社会主義社会には国家に対する忠誠違反が、というふうに。
    • 「犯罪は単に貧困や社会解体の問題ではないし、また特別に邪悪な個人や生物学的に欠陥のある個人の問題でもない。その意味ではラベリング理論は真相に近づいている。しかし、犯罪が生み出される過程は、単に違反者の心の中で生じる社会心理学的な出来事であるにとどまらず、もっとずっと広範な過程である。犯罪者は、社会全体を包含するより大きなシステムの一部をなしているにすぎない。」
    • 犯罪は組織的に行えば、効率的になる。しかし、犯罪組織はそれじたい社会を構成する。組織犯罪は、規則性と正常性へと犯罪者を向かわせる。成功すればするほど組織犯罪は普通のビジネスに近づく(なんたる皮肉)。
  6. 愛と所有

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