日本の思想

(1章はほとんど理解できなかった)40年以上前に書かれた内容が、いまでも通用することに悲しくなってきた。

  1. 「日本の思想」
    • 「所謂現代文明の大機構の組織に加はる個人は機械的習慣の奴隷となり、自ら作り出したこの怪物に無情にも制馭せられてゐる。西洋は自由といふことを高言してゐるにも拘らず、富を得んと競って真の個性は害はれ、絶えず募り行く渇望に幸福と満足は犠牲にせられていゐる。西洋は中世の迷信から解放せられたことを誇ってゐるが、これに代つた富の偶像的崇拝を何と見るか。現代の絢爛たる仮面の背後には何といふ苦悩と不満が隠されてゐることであらう。」『日本の目覚め』より
      マルクス主義が席捲していた時代は、資本家による労働力搾取が酷かった。現代はどうなのだろうか。労働条件は劇的に改善しているが、「富の偶像崇拝」は加速していやしないか?
    • 「維新の絶対王政的集中の思想的準備となったにもかかわらず、こうして出現した明治絶対主義は、当初から中江兆民によって「多頭一身の怪物」と評されたような多元的政治構造に悩まねばならなかった。」「そこにも、世界認識を合理的に整序せずに「道」を多元的に併存させる思想的「伝統」との関連を見出すに難くない。」「決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(御輿担ぎ象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。」
      組織の思想をどうまとめればいいのか?思想の多様性を認めつつ、組織の進む方向を整えるために、何ができるのか?多様性のすり合わせは、議論によってしか行なえない。議論には合理性が求められる。合理的議論がどれほど行なわれていようか?
    • 「第一に「実情」が共同体的習俗に根をおろしている限り、それは本来合理化=抽象化一般と相容れないものであり、したがっていかなる近代的制度も本来「実情」に適合することは不可能なのである。さらに第二に「制度」は既製品として、しかも各部門でバラバラに輸入され、制度化のプロセス(全体的計画性と個別的実態調査との結合)ぬきに実施されることが少なくないので、いよいよ現実との間に悪循環をひきおこす。その「改善」はいわゆる役人の機構いじりとなって、デスクの上で自己運動することになる。第三に元来近代的な制度やルールは社会的現実の無限の多様性を前提として、これを規格し整序するところに成り立つのであり、そこではルールの画一性はその「限界」の意識と相即している(さきのトレルチの引用参照)のであるが、近代日本ではメカニズムが権力と恩情との即自的な統一によって運転されるから、それは無制限に日常生活の内部に立入って、これを規律しようとする傾向を帯びるばかりでなく、逆に尺度が「情実」に規制されて伸縮するので、尺度としての衡平をも果たし得なくなる。こうして私生活の上にアイマイに、しかも重苦しく垂れこめる官僚支配あるいは組織の圧力は、日本社会の底辺から立昇った家父長的精神が「機構的合理性」に注油されて、ふたたび天降ってきたものまでが、土着的な心情の実感からはまさに近代的制度一般、組織一般の必然的なロジックとしてうけとられることになる。」
      40年以上前に書かれたこの文書は、現代にも符合する。成長していないということか、そういうものだということか?
    • 文学者が制度的近代化と縁が薄い理由:「(i)感覚的なニュアンスを表現する言葉をきわめて豊富にもつ反面、論理的な、また普遍概念をあらわす表現にきわめて乏しい国語の性格、(ii)右と関連して四季自然に自らの感情を託し、あるいは立居振舞を精細に観察し、微妙にゆれ動く「心持」を極度に洗練された文体で形象化する日本文学の伝統、(iii)リアリズムが勧善懲悪主義のアンチテーゼとしてだけ生まれ、合理精神(古典主義)や自然科学精神を前提に持たなかったこと、したがってそれは国学的な事実の絶対化と直接感覚への密着の伝統に容易に接続し自我意識の内部で規範感覚が欲望や好悪感情から鋭く分離しないこと、(iv)文学者が(鴎外のような例は別として)官僚制の階梯からの脱落者または直接的環境(家と郷土)からの遁走者であるか、さもなくば、政治運動への挫折感を補完するために文学に入ったものが少くなく、いずれにしても日本帝国の「正常」な臣民のルートからはずれた「余計者」的存在として自他ともに認めていたこと」
      思想の原点を使用言語に求めるという考え方が正しいなら、民族性は使用言語に強く依存しているのかもしれない。
    • 「そこでは制度にたいする反撥(=反官僚的気分)は抽象性と概念性にたいする生理的な嫌悪と分かちがたく結ばれ、また、前述した「成上がり社会」での地位と名誉にたいする反情と軽蔑(ときにはコンプレックス)に胚胎する反俗物主義は、一種の仏教的な厭世観に裏づけられて、俗世=現象の世界=概念の世界=規範(法則)の世界という等式を生み、ますます合理的思考、法則的思考への反撥を「伝統化」した。」
      グサッ、グサッ。
    • 「しかしこうして、現実と同じ平面に並べられた理論は所詮豊穣な現実に比べて、みすぼらしく映ずることは当然である。とくに前述のような「実感」に密着する文学者にとっては殆ど耐えがたい精神的暴力のように考えられる。」
    • 「自己の依拠する理論的立場が本来現実をトータルに把握する、また把握し得るものだというところから責任の限定がなくなり、無限の現実に対する無限の責任の建て前は、実際には逆に自己の学説に対する理論的無責任となってあらわれ、しかもなお悪い場合にはそれがあいまいなヒューマニズム感情によって中和されて鋭く意識に上らないという始末に困ることになる。」
      理論は現実を支える骨であろう。つめ、毛はもちろんのこと、肉の記述まで期待してはならない。
  2. 「近代日本の思想と文学」
    • 1934年ごろ、文芸復興という合い言葉がジャーナリズムを席巻した。戸坂潤「文学と宗教と神学等々の復興によつて打ち倒された旧権威こそ科学だといふことであるらしい」
      文芸復興では科学が打ち倒されたの?
    • 三木清「ちやうどコロンブスの卵に実際家の構想力が見られるやうに、知性の弾力は仮説的に動き回るところにある。この点で知性は空想に似てゐると云へるであらう。否、この点で知性は空想によつて助けられることが必要である。知性と空想とを全く反するもの、相容れぬもののやうに考へることは間違ってゐる。……日本の小説には空想が乏しいと云はれてゐるが、それは日本の小説が知性に乏しいということと無関係でない、つまり我々には仮説的な思考の仕方が十分理解されてゐないのである。」
      非合理(空想)は合理(知性)を助けるもの。俺に説得力がないのは、これと関係しているのか?
    • H.G. ウェルズは、"人間ふたり寄れば同じようには考えない、十人十色というやつだ。科学はいつだって矛盾だらけで、神学者と経済学者とじゃどうしたって意見が合いやしない"という考えがはびこるのは"多くは防禦の立場にまわった懶惰な精神から出ている"と断定する。
      「同じ考えを現わそうとやっきになっているくせに言葉の上でたがいに真向から反対しあっているのに気づくことが少くない。もっと人類共通の精神、普遍的知性に立って、教育と報道の普遍的な組織をつくろうではないか
      ーというのがウェルズの提唱である。彼は知性の個性的相異を抹殺するのでなく、むしろそれを確認しながら、相異を組み合わせて行くことで包括的世界概念を樹立しようというのである。」
  3. 「思想のあり方について」
    • 「自然科学者と社会科学者との間に、われわれは本質的に同じ仕事をやり同じ任務をもっているという連帯意識というものが非常に乏しい」

      各分野が専門化・先鋭化し、分野間の交流がなくなっている(=たこつぼ化)。分野ではないが、学校もそうなっていやしないか?学校外の意見にどれほど耳を傾けていようか?他方で、学校(ここでは高等教育機関)に求められている専門性に向かって一直線に進んでいるとも思えない。どうでもいい仕事が次から次へと増えて、大切な仕事に割ける時間がどんどん減っていく。
    • (平和論争とやらのエピソードによれば)文学者がいう頭の良さと、社会学者がいう頭の良さは違うかもしれないということが推定される。多重知性につながる考えかも。
    • 欧米には、教会、サロン、といったものがあり、機能集団の多元的な分化がおこっても、それら分化群をつなげる役割がはたらき、たこつぼ化を免れる。しかし、日本にはそれがない ... と丸山はいうが、本当に教会やサロンとやらは、つなげる役割を果たしたのだろうか?欧米も、日本同様のたこつぼにはまっていやしなかったのか?
    • 総合大学はいろいろな学部が地理的に近いだけで、総合的な教養が与えられているわけではない、という指摘はかなり強烈で正しい指摘。全然ユニバーシティじゃないって云う冗談もおもろい。
    • 官僚が日本を牛耳っていると世間は考えているが、当人たち(本では、著者の友人の局長や部長級の人たち)は被害者意識でいっぱい。彼らは、自分たちのことを、支配者、権力者とは見なしていない。マスメディアからは目のかたきに、政治家からは小突かれ、四方八方から攻撃され、孤立感、焦燥感を感じ、憤懣を持っている。丸山はその原因を、たこつぼ化にあると考えている。反タコツボ化という視点からは、自分の立ち位置は悪くない気がしてくる。タコツボから出過ぎているし、繋いでいないかもしれないけど...
    • タコツボ化すると、組織の言葉が組織外に通じない。それは、コミュニケーションの問題なのに、組織外の者への啓蒙で乗り切ろうとする。タコツボ型では、一つの組織の前進は、他の組織との連帯を破壊する。ササラ型なら、一つの組織の前進は共有され、全体に浸透し、全体を前進させる。
    • 非階級的(=階級横断的)な組織化が求められている(プロレタリア婦人同盟は悪い例で、原水爆反対運動は良い例)。多様なイメージをモンタージュのように合成して、流通度の高い言葉を見つけなくてはならない。
    • 真理にだけ頼り、幻が新たな現実を作るのを放置すれば、取り返しがつかなくなる。人々のイメージをどう合成するか、人の自主的なコミュニケーションをどうひろげるかが社会科学の解決すべき問題。
  4. 「「である」ことと「する」こと」
    • 「有能な経営者をうるかどうかということは企業にとって死活問題になります。」
      今のこの国が、指摘されている死活問題にどれほど真摯に対応していることか。組織の経営者が無能な例なんていくらでもあろうに。
    • 政治の世界での「する原理」とは、「人民と社会に不断にサービスを提供する」、「指導者の権力乱用をつねに監視」すること。「派閥とか情実の横行ということも、つまりは「『する』こと」の必要に応じて随時に人間関係が結ばれ解かれる代わりに、特殊な人間関係それ自体が価値化されるところから発生してくるものなのです。」
      ほんと下らない。ぶっ壊してやりたいわ。
    • 「制度を判断する際には、まだ多分にその制度の現実的な働きによってテストしないで、それ自体としていいとか悪いとか決めてしまう」「自由世界と全体主義世界とか、資本主義と社会主義とかいう分け方をあらゆる政治現象の判断に「先天的」に適用しようとする傾向が、右のような「である」思考に過剰されることになってきます。」
      人だけでなく、ものや仕組みにも一般性を適用するときには、慎重になったほうがいいということか。
    • 「良い制度から必然的に善事が、悪いことから必然的に悪事が生み出されるという思考のパターンが固定化すると、それは認識として誤りであるばかりでなく、はなはだ危険な結果になります。」
    • 上の思考パターンの固定化の背後には「理想的な社会や制度が一つの「模範的」な状態として、いわば青写真のように静止的に想定されているからです。」今は民主主義の世の中だから、とか、見本は民主主義の国である以上この秩序を破壊する行動は……、といった論理に基づけば、「民主主義は日々作られているのではなく、既存の「状態」であり、この「状態」の攪乱はいわば自動的に「反民主主義」のレッテルをはられてしまいます。」
    • 「本当に「おそれ」なくてはならないのは、議会政治が」「否定論によってきたえられないで、頭から神聖触れるべからずとして、その信奉が強要されることなのです。およそタブーによって民主主義を「護持」しようとするほどこっけいな倒錯はありません。タブーによって秩序を維持するのは、古来あらゆる部族社会ー「である」社会の原型ーの本質的な特徴に他ならないのです。」
    • 「ところが「である」思考と「らしく」道徳の強い社会では、とかくそうした「はたらき」の区別が特定の人間や集団の区別からもっぱら出て来るようにかんがえられます。つまり文化活動は「文化団体」や「文化人」に、政治活動は「政治団体」や「政治家」にそれぞれ還元されてしまうから、文化団体である以上、政治活動をすべきでない、教育者は教育者らしく政治に口を出すなというふうに考えられやすいのです。」こういう傾向が強まると、各専門分野が、専門家の専有物になってしまう。
      なんか『脱学校の社会』に通じる気がする。
    • 文学者の政治活動と政治家の政治活動は異なっている。「後者は権力を目的とする活動ですが、この文学者の場合は権力を目的としないのはむろんのこと、およそなんらかの政治的動機から発する活動でも恐らくないでしょう。しかし、どうして権力を直接目的とする活動だけが政治活動なのか。どうして学問や芸術といったそれ自体非政治的な動機から発するいわばいやいやながらの政治活動があっていけないのでしょうか。」あってはいけないという考え方の背後には「である」政治観がある。
    • 福沢諭吉「世の中にむつかしきことをする人を貴き人といひ、やすきことをする人を賤しき人といふなり。本を読み、物事を考へて世間のために役に立つことをするはむつかしき事なり。されば人の貴きと賤しきの区別はただその人のする仕事のむつかしさとやすきによるものゆえ、いま大名、公卿、さむらいなどとて、馬に乗りたり、大小を挿したり形は立派に見えても、そのはらのなかはあき樽のやうにがら空きにて……ぽかりぽかりと日を送るものは大そう世間におほし。なんとこんな人を見て貴き人だの身分の重き人だのいふはずはあるまじ。ただこの人たちは先祖代々から持ち伝えたお金やお米があるゆえ、あのやうに立派にしてゐるばかりにて、その正味はいやしき人なり」
    • 「政治や経済の制度と活動には、学問や芸術の創造活動の源泉としての「古典」にあたるようなものはありません。せいぜい「先例」と「過去の教訓」があるだけであり、それは両者の重大なちがいを暗示しています。政治にはそれ自体としての価値などというものはないのです。政治はどこまでも「果実」によって判定されねばなりません。政治家や企業家、とくに現代の政治家にとって「無為」は価値でなく、むしろ「無能」と連結されても仕方のない言葉になっています。ところが文化的創造にとっては、なるほど「怠ける」ことは何物をも意味しない。」「こういう文化的な精神活動では、休止とは必ずしも怠惰ではない。そこではしばしば「休止」がちょうど音楽における休止符のように、それ自体「生きた」意味をもっています。ですから、この世界で瞑想や静閑がむかしから尊ばれてきたのには、それだけの根拠があります。」
      この物言いはちょっと引っかかるね。納得感に欠ける。本人も、文化面において保守的とのそしりを警戒しているようだけど...。
  5. 雑感
    • 1961年発行の本なのに、現代にも通用する批判がてんこ盛り。
    • 丸山って、ちょくちょく英単語が混入していて、ルー大柴みたい。
    • 自身の周りの行き詰まりって、丸山の云う没交渉に起因するんじゃないの?

















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