私は黒人奴隷だった

フレディの成長は、環境の変化=刺激を与える人との交流によって起きている。

  • 読み書きのきっかけを与えたソフィア
  • 知識が自由へと続くと(はからずも)教えてくれたヒュー・オールド
  • 読み書きを教えてくれた路上の白人少年たち
  • 主を求めよと説いた説教師ジョンソン
  • はじめての本『コロンビアン・オラター』(カレブ・ビンガム編纂)
  • 奴隷制度即時廃止を掲げた週刊誌『解放者』を出版するウィリアム・ガリソン
  • スレイブ・ブレイカー エドワード・コウビー
  • 自由黒人で妻のアンナ・マレー
  • 自由黒人で季刊誌『自由の鏡』の編集者、地下鉄道活動家のデビッド・ラグルズ
  • 武力行使による自由獲得もやむなしと主張する非ガリソン派の廃止論者ヘンリー・ガーネット
  • 奴隷所有権を買い戻すために募金活動をしてくれた、イギリスの友人エレン・リチャードソン、アンナ・リチャードソン
  • 黒人のモーゼと称された、地下鉄道の女性総司令官ハリエット・ダブマン
  • 白人の、激烈な奴隷制廃止論者ジョン・ブラウン

アメリカ南部の資本家へ怒りを感じた。今も基本的な体質は変わっていないのではないか。(オーナーの意味での)資本家は労働者をリソースとしてみており、自身と同じ人とは意識していないのではなかろうか。労働者なくして企業は成り立たない。この意味では企業のオーナーと労働者は共同体を構成している。しかし、労働者の替えはいくらでもいる。不満ならやめてもらってもオーナーは困らない。労働組合の意義が見えてくる(腐った組合には入りたくないが)。
  • 子どもの奴隷たちへの食事はマッシュ(とうもろこしを粗挽いたものの粥)。ブタのエサ箱のような木の器にいれ、スプーンがわりの牡蠣の殻で食べる。人間同士の早食い競争に敗れると、犬との床に落ちたパンくずの取り合い競争へ。
  • 寒さとの戦いも。衣服は粗末なものが年1回配給された(シャツ2枚、ズボン2本、上着1着、大人向け?)。子どもの奴隷には靴と靴下は与えられなかった。物置小屋の床がベッドで、麻袋に潜り込んで寝た。
  • 奴隷は、体中が血だらけになるまで、主人にムチで叩かれたりした。
  • (1826年、フレディは主人の親類の子トミーの相手をする奴隷として移動させられる)この境遇の変化がなければ、南北戦争によって解放されるまで、わたしは奴隷だったでしょう。
  • 生まれた時から「黒人は劣等人種だ」と教育されて育った奴隷者所有の貴婦人たちとは違って、ソフィアははじめて接する奴隷フレディをわが子同然に扱った。
  • ある日の夜、ソフィアの(旧約)聖書を読む声が聞こえてきた。次の朝ソフィアに文字の読み書きを教えて欲しいと、こわごわお願いしてみた。ソフィアはこころよく引き受けてくれ、トミーと並んで読み書きを習い始めた。フレディ9歳の時のことであった。いつものように教わっていると、ヒューが帰宅した。そのとき、ソフィアが誇らしげにフレディの読み書き能力の向上を語ると、ヒューは表情をこわばらせ、強い口調でこう命じた。「いますぐやめろ。今後はこんな真似許さない。知識は最も優れたクロンボもだめにしてしまう。聖書を読めるようなクロンボは、奴隷には適さない。奴隷は主人の意思以外なにも学んではいけない。主人の命令に従いさえすればいいんだ。読み書きができるようになった奴隷がすることは、決まって逃亡だ。」この時、フレディは学ぶことが自由への道だとはっきりと自覚しました。奴隷であるがゆえに、もっと学ばなければならないのだと痛感しました。しかし、この時以降、ソフィアは、フレディが学ぶことを妨げるようになりました。フレディは学び方を工夫しました。路上の白人に、パンくずや駄菓子を渡して、ポケットに忍ばせておいた新聞や本の切れ端を渡して、読み方を教わりました。
  • トミーが公立学校に通うようになると造船所で働くように命じられます。仕事が暇なときに、黒人たちの集まる場所に、よく行くようになりました。ここには、さまざまな職業(職工、船乗り、牧師)の奴隷でない黒人(自由黒人)もいて、立派な教育を受けた知識人も含まれていました。当時のボルチモアには、奴隷の4倍の自由黒人がいました。しかし、なぜ自由な黒人と、奴隷の黒人がいるのか?教会は「人は皆罪人」と説きながら、なぜ白人は全員自由なのか?フレディは問い続けました。そんなボルチモアですが、夜、奴隷たちが「奴隷留置場」に移動させられるときに、足かせをガチャガチャ鳴る音や、悲しみに満ちたうめき声を聞くこともありました。
  • ある黒人説教師チャールズ・ジョンソンは「ひたすら祈りを通して主を求めよ」と説かれ、一心に祈るうちに「この世に神がいるなら、こんな世界許すはずがない。この世界を神の御心にそうよう回心させなくてはならない。」と結論するようになりました。
  • 靴みがきで得た金で、はじめて買った『コロンビアン・オラター』は国語の教材として使われていた本でした。「カトリック解放演説」「主人と奴隷との対話」など、自由や民主主義についての演説も載っているこの本は、フレディの知識欲をかきたて、彼は貪るようにこの本を読みふけっていました。逃亡は、それまで奪われていた基本的人権である自由を主人から取り戻し、人間に戻る正当な行為であり、神の意思に背くものではない、との信念を持つようになりました(1856年、この本は、奴隷制廃止を扇動する危険な書物に指定された)。
  • 1831年、ナット・ターナーが、大奴隷暴動を起こし、約100名の黒人と約60名の白人が殺された。その元凶は、黒人たちに奴隷制廃止を扇動したアボリショニストだと、主に南部の州の奴隷所有者たちは糾弾しました。アボリショニストとは、主に北部にいた奴隷制廃止論者のことで、白人も含まれています。
  • 1833年、フレディは元居たセントマイケルズに戻されました。そこで、エドワード・コウビーから、ひどい扱いを受けます。血が出るまでムチで叩かれ、食事もろくに与えられませんでした。ある日、死を覚悟の上で、フレディはコウビーの暴力に力で反抗し、コウビーを打ちのめしました。それ以来、ムチで叩かれることはなくなりました。これを機に、フレディは、自身を取り戻し、消えかかっていた自由への渇望が戻ってきたと述懐しています。奴隷根性を撃退し、この日以降自分は自由になったと語っています。
  • フレディは逃亡を企て、留置場に入れられた。釈放後すぐ、1836年、再びヒュー・オールドのもとに送られた。そして都市部の自由黒人との交流が活発になった。
  • 1838年、妻アンナ・マレーと再会を誓って、北へ逃亡。前年にできた鉄道のおかげで奴隷追跡者と専用犬に怯えることもなく、フィラデルフィア、ニューヨークと移動した。途中デビッド・ラグルズに匿われ、同氏の計らいで妻をニューヨークに呼び寄せ、結婚式を挙げた。この時、逃亡を容易にするため、フレディはフレデリック・ジョンソンと名前を変えている。その後、より安全なマサチューセッツ州へ移動した。そこは、ジョンソンという名前が多かったため、フレデリック・ダグラスに改名している。自由州の北部で、期待する職にはつけなかった。理由は黒人差別である。ダグラスは、できる仕事はなんでもやった。どんな仕事も苦しみよりも喜びの方が大きかった。なぜなら、働いて金が得られるということは、自身の基本的な人権を取り戻したことを意味していたから。
  • フレディは、ガリソンの『解放者』を読むようになって、奴隷制廃止主義の原理、方法、精神について理解するとともに、熱烈なガリソン信奉者になった。アメリカ植民協会の、自由黒人アフリカ送還運動に反対する演説をかわきりに、奴隷制廃止討論集会には必ず出席し、この運動の中心的存在になっていった。
  • フレディは、演説の中で自身の奴隷体験を語った。しかし、一日も学校教育を受けたことのない元奴隷が、あんなに雄弁に、正確な語法と思考で演説できるのかを疑う者が出てきた。フレディはいまだ逃亡者だったため、自身の経験を詳細に話すわけにはいかなかったことも、この疑いの原因の1つである。そこで、事実(日時、人名、地名)を、他者に害が及ばないよう詳細に記述した自伝を出版した。この本はすぐに売り切れ、1年で増刷を4回行い、5年間で3万部が出た。
  • 逃亡奴隷と公言したことから、身の安全のため渡英することになる。イギリスでは、反奴隷制感情が行き渡っており、ホテル、レストランで拒否されたり、列車の一等車の切符を断られることもなかった。白人と連れ立って歩くこともでき、名士宅にゲストとして遇されることもあった。イギリスの友人たちは募金を集め、当時のフレディの所有者ヒュー・オールドから、所有権を買い取ってくれた。1846年フレディは公式に自由になった。このおかげで、大手を振ってアメリカに戻り、奴隷制廃止運動に注力できるようになった。
  • 1847年、アメリカに帰国。週間新聞『北極星』発行。費用はイギリスの友人たちが準備してくれた。これにガリソンは激怒。渡英期間1年8ヶ月の様々な人たちとの交流は、フレディをガリソンの思想の枠から大きく成長させていた。地下鉄道の名駅長、名指揮官として、何人もの奴隷をかくまい、逃亡させた。なお、フレディは、黒人のモーゼことダブマンを称える文を残している。ダブマンは、自身の身の危険を賭して、300人の黒人を救ったと言われている。
  • 1850年、逃亡奴隷法制定。この法律は奴隷に不利な法律だった。この法律を死文化するために、人さらい(奴隷拿捕人のこと)を殺すしかない、とフレディは断じている。そこに、かつて、ガリソン派時代に道徳的説得による奴隷制度廃止を訴え、実力行使もやむなしと主張するガーネットと論争したフレディは、もはやいなかった。暴力的廃止論者ジョン・ブラウンの影響が大きかったと推測される。ブラウンは、奴隷所有者は、奴隷に対する犯罪的行為により、既に生存権を失っていると説いた。また、道徳的手法や政治的手法では、奴隷制廃止はできないとも主張した。その後、ジョン・ブラウンは実力行使に打って出る。これは失敗に終わるが、その後の南北戦争時に、彼の行動に続けと人々を立ち上がらせることになる。
  • 1861年大統領になったリンカーンは当初奴隷制廃止を説いてはいなかった。南北の妥協策を打ち壊した南部諸州の分離と北部への発砲(=南北戦争開始)その時でさえも、リンカーンはまだ南部帰還の選択肢を提示した。連邦維持のために、奴隷制を容認するリンカーンを、フレディは厳しく批難した。自由のための戦いに参加を申し出る黒人たちを、リンカーン政府は拒否した。奴隷制反対の世論はその後どんどん高まり、リンカーンはこの戦争は奴隷解放によって解決する必要があると認識するようになったが、解放後の奴隷については、国外に移住させたいと考えていた。1862年の奴隷解放予備宣言でも、リンカーンは反乱州の奴隷に対してのみ解放をうたった。1863年の奴隷解放宣言では、黒人の兵籍が認められ、18万人の黒人が勇敢に戦い、北部の勝利で終戦する。1865年奴隷解放宣言は憲法に組み入れられ、奴隷制は完全に廃止される。

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